伝統工芸ギフトショップ 什物堂
132,000円
宋時代軸装(209 x 67.1 cm) 絹本・設色
明時代掛軸(212 x 56.5 cm) 紙本・設色 仇英(一四九四〜一五五二?)は江蘇太倉の人。早くから彩色画を志し周臣に認められて教えを受け、自らは唐宋の名蹟に学びしばしば手本以上の出来映えをみせて古画の妙趣を会得。仕女画(美人画)と界画(宮室・楼台画)の名手として名を馴せ、明時代の四大家の一人に数えられています。また、山水画にも秀で、"寸人豆馬"の細密画に一格を有し、その気高い画風には他の画人の及びがたいものがあります。この図は仇英五七歳の作。一点一画もゆるがせにしない筆力で描かれ、とくに松の樹々や楼台のあたりに見られる絹糸のような繊細な画法は目を見張るものがあり、仇英の真面目を示す作画中の白眉とされています。図の上方には情景の幽遠さを謳いあげる陸師道の楷書による「仙山賦」があり、味わいをいっそう深みのあるものにしています。
418,000円
宋時代軸装(212 x 109 cm ) 絹本・浅設色 郭熙は、河南温県の人。北方山水画の始祖李成を師とし、李成が旧来の三遠法によって自然の無限の境地を表現しようとしたのに対して、郭熙はさらに大気表現や明暗にまで及ぶ空間表現を重視し、より理想化された境地を完成させた画人として高名を得ました。山水画論「林泉高致」を著わして画の遠近浅深、四季朝夕の変化を論じていますが、この作もみずから早春図と題するように軽重濃淡を巧みに使い分け、早春の山林の景象を描いています。淡い墨で描く樹々の梢、濃い墨を重ねて描く樹々の根幹の描写は、後世の画人の簡素な表現とは大きな違いがあり、山や岩の輪郭の重厚な筆使い、樹々の芽吹くさま、頂に立ちのぼる雲霞の精妙な筆致に郭熙の並々ならぬ卓越した技量がうかがえます。早春図は伝世する郭熙画の中でも、范寛の谿山行旅図と双璧をなす北宋画屈指の名作です。
68,200円
唐時代 額装(71.3 x 91.8 cm) 渋箱入・解説小冊子付 宮中の11人の女楽士が、晩餐の後でもあろうか、あるものは琵琶をつまびき、箏を奏で、笙を吹いたり、またあるものは耳をかたむけて拍子をとったり・・・と和やかに奏楽の練習に励む姿が鮮やかな色彩で描かれています。画面左には侍女が髪をあげまきに結い、西洋の楽器オカリナに似た壎という陶製の楽器を吹いている楽士の後ろに立ち、大きなテーブルの下には一匹の犬がうずくまっているのが見えます。このように宮中の日常的な様子を細かに描写したこの図は、唐時代の風習の一端をうかがい知る重要な資料ともなっており、髪の結わい方、身につけている衣装、さらに彩色に使われた顔料などから、唐時代晩期の作品とするのが定説化しています。仕女の豊満な姿態はあの樹下美人の典型を示すもので、唐時代の絵画の気品を漂わせる数少ない一品です。
宋時代軸装(212 x 67.8cm) 絹本・設色 劉松年(十二世紀末〜十三世紀始)は浙江銭塘の人。清波門に居を構え、俗に劉清波とも暗門劉とも呼ばれました。南宋の考宗の淳熙年間に画院の学生となり、紹熙年間にはそのすぐれて抜きん出た才芸をもって天子に召し出されるに至りました。張敦礼に師事して人物画、山水画をよくし、清々しくも力強い筆致は"神気絶妙"と評され、その画名はやがて師をも凌いだといわれてます。劉松年が活躍した宋時代には禅宗が流行し、それに伴なって禅寺の什物として仏教画が盛んに描かれました。この「羅漢図」はその代表的な遺品羅漢の円光背を透して画かれた?羅の樹々の描写、侍者の豊かな表情、また、鹿や猿、風景にみられる精緻にして重厚な画法。絵画技法の粋を尽した一時代を画した作品として重要な位置を占めています。
88,000円
元時代軸装(212.0×73.6cm) 紙本・設色 王蒙(一三〇八〜一三八五)は浙江呉興の人。字は叔明。かの詩書画に長じた交人として著名な趙孟?の外孫にあたり、香光居士と号し、また元末には乱を避けて杭州」の近くにある黄鶴山に隠居したことから黄鶴山人、黄鶴山樵とも号しました。画については祖父・趙孟?の影響を受けましたが、のちに至ってすすんで唐宋時代の名蹟に親しく学んで新たに画風を築き、山水の構図に独自の境地をきり拓いたといわれます。この図は具区(太湖)の一角に重なりあって続く山々や、霜林中の家屋、また山間の滔々たる清流が岸辺を洗うさまを繊細、華麗な筆致で描写。王蒙の創案になるという山や石のひだを渇筆で描く皴法"解索皴"で写し取られた岩肌と、津動的な波紋が見事に調和しています。この佳作の最大の特徴は、繁雑にしてなお簡素な趣きと、濃厚にしていよいよ清楚な味わいが、観るたびに深まってゆく魅力にあるといましょう。
77,000円
宋時代軸装(182 x 52.7 cm) 絹本・浅設色 馬遠(十二〜十三世紀)は山西河中の人。号は欽山。夏圭とともに南宋画院の後期を飾る画人として著名です。光宗・寧宗朝に画院にに召されました。召されました。李唐の画法を学び山水画に秀いでましたが、なかでも厳格な筆法を駆使して焦墨(脂分を抜いた独特の墨)で描いた樹々や岩・石のたたずまいには余人の追随を許さぬ独自の風格を備えました。また、直立する山岳を描いてはその頂までは敢えて描かず、直下する絶壁では下景を表わさない独特の表現法を確立、世に「馬一角」と称されました。この「雪灘双鷺図」では、雪の降り積もった山崖から張り出した枯木と、蘆竹の生えた」汀にじっとうずくまる二羽の鷺を大胆な構図でまとめあげています筆を振わせる画法やぼかしの技法に馬遠画の特色を十二分にくみとることのできる、静謐な情趣にみちた逸品です。
110,000円
明時代軸装(200 x 48 cm) 紙本・水墨 董其昌(一五五五〜一六三六)は江蘇華亭の人。字は玄宰、思白・思翁と号した。書名はつとに高く行草体では明一代の冠と称讃されました。画にもすぐえた才能を発揮し、宋元時代の法を得て山水画を好んで描いたといわれています。署名に『容台集』、『画禅室随筆』があり、明時代の芸術論を代表する名著です。「ホウケイ訪古図」は董其昌四八歳の作。山や岩肌は長皴を積み重ねて克明に描かれ、観る者の目は、はるかな岩山からその裾野にしつらえた小さな草奄、そして近景の樹木と家屋へと移って奥行きの深い感動が湧き上がってきます。「爽朗にして瀟酒、秀潤にして蒼鬱、超然として出塵の感あり」と絶賛されたその筆墨の妙が十全に横○した佳作であり、明時代の南宗画の指導者として芸苑に絶大な影響を及ぼした董其昌の真面目を表わしています。
1